昭和42年9月18日 月次祭     


・・・そこから、おかげの受けて行けれる道を求めて行かなければならんと思うのです。ね。御結界の不可侵、御取次の絶対、絶対性ですよね、御取次の絶対性。天地の親神様が教祖の神様に、立教神伝とただいまでは、それを申しております。ね。この幣きり境に肥え廃差し止めるから、その分に承知してくれという、あのお言葉なのです。ね
 教祖42歳の時に、死んだと思うて欲を放し、どうぞ神を助けてくれと、こう言う。ね。そこからね、そこから、神も助かり氏子も立ち行く道が開かれた。親のことは子が頼み、子のことは親が頼み。頼み合いして行けれる道。信心共栄の道が開かれるとするに当たって、天地の親神様が教祖の神様にお願いをなさっておられます。それを教祖の神様が、いやあ、私はまだ、そんな段じゃございません。まあだ、百姓の方が忙しゅうございますというようなことが微塵も、毛頭ないご心境で、それを、もう、そのまま、「はい」という素直な心でお受けになられた。そこから、お道の信心が、まあ、始められた訳でございます。そこには、大変な問題もあったらしいです。私の今度の検定試験の一番問題になったところはここでした。
 あの、教祖の神様が、この立教神伝をお受けになるに当たって、どういうような問題があったであろうか、という事であった。それは私ども、まあ、一通りのことは知っとりますけれども、それは知らなかった。ちょうど、その前日の朝、学院生に対して、学院長が御理解を下さった。こんなに、皆さんもお読みになったでしょう、金光大神という、いわゆる、お道の聖書でもあり、御伝記でもある。
 あの中には出ていないところなんです。そこを、説明なさった。で、その前に、まあ、末永先生のお兄さんであります、郷ノ浦の末永勇さんが、ちょうど晩に学院生を2~3人連れてまいりまして、それで、晩遅うまでお話をして帰りました中にです、先生、今朝、こういうような学院長の御理解でございました。
 その問題は、学院長が出された問題でございましたそうです。それを、学院生に話しておられる、その問題が私どもの検定の試験に出ておった。ね。それは、並大抵のことじゃなかろう。教祖を御中心にするところのお百姓を営んでおられる。そこへ、いわゆる、もう肥え灰を差し止めると、天地の親神様が言うておられる。ね。そして、どうぞ神を助ける、助けれくれと、こう仰った。
 お前も、もう42歳の時に死んだと思うて、欲を放して、助けてくれ。そこからね、神も助かり、氏子も立ち行く道が開けるのであるから、どうぞ、ここんところを、もう、死んだと思うて欲を放してくれというように、奥様に後家になったと思うてと、こう仰っておられます。大変な、私は問題であると思うですね。一家を支える中心として、ね、それは、お仕事をさせて頂き、頂きならばです、ね、それは、いざ知らずでございますけれども。もう、肥え灰を差し止められるということになって来ると、もう、いよいよ神前奉仕に専念しなければならないていうこと。まあだ、子供も大きゅうなっておりませんし、まだ親も抱えておりますし。そこんところをですね、その教祖の神様の、そん時のご心境というものは、かくあったであろうということを、その時、学院長が話された、御理解に。 そして私は、当時一遍のことを書きますと同時に、その、夕べ聞いたばかりの、その学院長の話を書いた。ね。それは、私のことかどうか分かりませんけれども、学院長がその後で学院生に、今度の検定を受けられる人の中には、それこそ、金光大神を隅から隅まで読破しておる人があると言うて、言われたということです。あの厚い金光大神も、私どもも勉強出来やしませんのだけれどもです、こういうことまで分かっておるということは、金光大神を隅から隅、いや、隅から隅ではない、その、内容にあるところまで、その中から頂いておらなければ、こういう答えは書けるもんではないという事である。
 そりゃ、(何十人?)それこそおったんですけれども、そうだった。ね。第一、金光様はご養子の身分である。第一親戚、または、親子様に対しましても、まあ、大変な気兼ねがお在りになったであろうという事である。ね。ただ、はい拝承致しましたとこう受け承われる中に、その他にも(うちに?)ございましたがです、ね、そういう様々な問題を抱えながらもです、神様の仰せをそのまま承られ、そして、神前奉仕に専念される。難儀な氏子が参って来る、その御取次にかかられた。そういうことで、あの立教神伝という内容がです、どんなに大変なものであるかということ。ね。
 そこで、まあ、天地の親神様のご依頼を教祖の神様が受けられた。次の言葉に、此方金光大神あって神が世に出たのである。氏子からも神からも、両方からの恩人は此方金光大神であるというように、金光大神の御信心を頂いて。天地の親神様がそういう風に頂いておられます。
 まさかの時には、天地金乃神と言うにおよばん。金光大神助けてくれと言えば、助けてやるというようなお約束までもなさっておられます。ね。そこに初めて、いわゆる、御結界なるものが生まれたわけなんです。神様の世界と氏子の世界を、まあ、取り結ぶ世界。そこから、世の中の難儀な氏子の助かって行くところの元が、ここから生まれてくるのである。ね。
 そこで、御取次を願い、御取次を頂くということになるのでございます。ですから、これは、もう、何(  )と言うても、御結界を犯すことは出けない。だから皆さんも、もう、御結界で、御結界を通しなさい。大事な問題であればあるほどに、御結界を通したかと、御取次を頂いたか、と。ね。そこから、私どもの日々の生活が生まれて来る。そこから喜びが生まれてくる。ね。そこから、安心が頂けてくる。そこから、おかげが受けられてくる。そこから、めぐりのお取り払いが始まってくる。ね。
 ですから、その御結界というものが、どういうものであるか、と。ね。御取次というものが、どういうことなのか、と。ね。しかも、それが分かっただけではいけない。いわゆる、御結界の不可侵ということとです、御取次の絶対性というものを私どもが信じられるところから、おかげが生まれてくる。ね。そこから安心が生まれて来る。そこから、喜びが頂けてくる。そこから、めぐりのお取り払いが頂けれるところのものが生まれてくるのでございます。
 今日、私はただいま、御祈念に出ろうとしておりましたら、末永さんが紙切れを持ってまいりました。先生、只今、〇〇さんから電話がかかってまいりました。今晩のお月次祭におかげを頂きます。先生にご神意を伺うて頂いておきたいことがございますから、というお電話であった。それは、娘さんの結婚式の問題である。いついつ、見合いをすることになっておる。名前が何々と申します、私の娘は何々と申します。
 見合いをさせて頂くんですが、もし、両方が気に入った場合にです、はい、と言うて返事をして良いかどうかということを、まあ、伺うておってくれと、こういう訳なんです。ね、ここまでであったらですね、私(よりも?)霊能者のところへ行きゃあ、まあ、同じようなことを言うのじゃなかろうか。はあ、それは結構な、まあ、あるところに行ったら相性が悪かち言いなさるかも知れん。
 もう、お道の信心では、そんなことはございませんですよね。相性とか、そんなことがあるもんじゃない。本人の心と心を見合わせよと仰るのでございますから。ね。それでご神意があんまりいかんのならば、見合いをしたと、よし、気に入っても断らなければならない。そこで、聞いておってくれ、伺うておってくれと、こういうことである。しかし、ここまでのことだったらです、わざわざ金光教じゃなくても良いちゅうことでございましょうが皆さん。ね。
 御取次を頂いたが最後、ね、そこから、いわゆる、御取次の働きというものがある。私は、そのことを御取次させて頂きよって、今晩の御理解を頂いたのでございます。その方も、まあ、私の話を聞いておって下さるのですから、どうぞ、そのつもりで聞いて頂きたいのです。どこの誰々さんが家の娘に見合いをさせてくれと言うて、お願いに見えましたから、見合いをさせます、と。
 どうぞ神様、御取次を頂いて、万事よろしゅう、双方共におかげを頂けて行くところの結婚が成り立つか成り立たないかは、神様のいわばしちゅうにあることである、お心にあることである。見合いだけは、こうやって、もう約束致しましたから、どうぞ、もし双方の不幸せになるようなものでございましたら、不成就に終わりますように。
 双方が気に入りました、双方が行こう、もらおうというようなことになってまいりましたら、これを、おかげである、神様のお働きの中におかげを頂いておるんだと頂かせて頂きますから、万事よろしゅうお願い致しますというものがその次にあって、初めて御取次ということの働きが十二分に出けてくる。同時に、その御取次というものを信じるところにです、今、その私が申しますことがです、どうぞ、お願いをしてからお見合いをさせて頂くのであるから、気に入る、気に入らないは別。気に入らんと言うなら、はあ、それはご神意が、もう、いけんとよということになって来るのである。それでも、無理を向こうから言われる。娘の心も動いてきた。そして、行くという気になった。はあ、これはおかげを頂けれると思うて、思うたが良いのである。もう、実に自由無碍な心というものが、そこから生まれてくる。
 金光教の信心の一番有り難いところは、そこだと、こう思う。御取次を頂いたら、そういう働きがあることを確信することなんだ、そこを信ずることなの。ね。そこに、良いか悪いかが分からなければというのではです、親としてあまりにも、それは不親切である。親の切なる願いであるならあるほどにです、どうぞ神様、これが双方の幸せになるのでございましたら、万事にどうぞよろしゅう、行こう、もらおうということに成就いたしてまいりますように。ね。
 私の方でも、娘が昨日、行事がありましてから福岡へまいりました。ちょうど福岡の御信者さん方がそれを知っておられましたから、私の方へ寄ってください、寄ってくれと言うて、昨日は渡辺先生んところにお寄りしたらしい。晩に遅う電話がかかってまいりましてから、今晩お泊めしますからと、こう言う。
 明日のお月次祭に間に合うようにお返し致しますから、私どもも一緒にお参り致しますからというところが、時間が来ても帰って来ない。どうしたっじゃろうか。(お祭りは分かっておるのに?)。もう、そういう気持ちがさらさら起こらない、なぜか。
 あの人が出て参ります時に御取次を頂いた。どういう気持ちで、今日は福岡へやらせて頂いたならよかろうかと、こういうお願いが来ておる。いわゆる、御取次を頂いてある。私は御取次させて頂いた。そしたらね、徳の船を差し向ける、この船に、差し向けられる船に素直に乗って行きゃあいい、という御理解だった。ね。だから、渡辺先生は家に寄って下さいと仰ったのも、やはり、徳の船なのだ。それに乗ってから、早かろうが遅かろうが、そのことは問題じゃないです。
 お月次祭に間に合おうが、間に合わん、そんなことは問題ではない。ね。そこに、私の心に安らぎ、安心というものがある。今日はお月次祭にも、わざわざ、先生も渡辺先生、今日はお祭りが分かっちゃるとに、早う帰って来りゃええのにということになるんじゃないでしょうかね、普通だったら。気が気じゃない。自分方の大事な娘ば、いうふうにもなり兼ねないところなんですけれど、その朝は御取次を頂いておると、安心なことなんです。そうでしょうが。
 私はね、ここんところが頂けて来るとです、ね、私、御結界の不可侵。私ではない、金光大神が取次いて下さったんだ、そん時に。しかも、その御取次の働きというものがです、このようにして働きがあったんです。徳の船に乗せられてから、帰ってきたということなんです。お祭りが済み、只今帰ってまいりました。いやあ、(   )たねというだけの事なのである。
 今日のお月次祭と分からんやったね、ということになるわけです。もう、一時が万事にその調子なのだ。ね。そこで、私が一番はじめに申します、御結界のいわゆる不可侵であるということ。御取次の絶対性である。絶対性というものをです、私どもがそこを信ずるということによって、生まれてくるところのおかげを、お道の信心で言う、おかげであり、信心と言うのであります。
 そこから、いわば安心が生まれて来る。本当に、今、その中に安心がいつもある。ね。今日、私がその結婚式のことの御取次をさせて頂いた方も、いわば、もう椛目で十何年間、信心のけいこをさせて頂いて分かっておられるから、そういう風な御取次が出来るのである。
 これが初めての人か何かだったらです、それは、御結界のいわゆる、何事でも犯すことは出けないというようなことやら、御取次を頂くということが、どんなに絶対なものであるかということが分からんのですから、そんな風に御取次をするわけにはいかん。もう、その方は椛目に、いや、椛目からこちらへかけての長い信心を頂いておられるから、私が言うことが良う分かられると思うのでございます。ね。
 ですから、ここんとことは、また、なら、信心の浅い人にはです、いや、それはいかんばい。それは、もう見合わせたがよかばい。そりゃあ、もう、気に入ったっちゃやらんがよかばいという風に、端的に教えなければならないけれども、そこで、それを信心頂いておるおかげでとでも思うたら、お道の信心は、もう、根底から間違いなんです。ね。
 ですから、そういうお伺いをしたり、ご神意を頂いたりする時には、まだまだ、自分の信心というものがお道流の信心でないということを、まず、知らせなければいけない。いや、自分が絶対であることを信じていないから、こういうことになって来るのであるということなんだ。ね。
 今日は久留米に集金にやらせて頂きます、という御取次を願うたら、集金が寄ろうが寄るまいが、そこから先のことは問題じゃないんだ。けれども、私どもの願いとしてはです、やはり、今日は金銭のおくり合わせを頂きたい。どうでも、集金のおくり合わせを頂きたいという願いを持たせて頂くところに、よし、そこにはです、集金のおかげを頂かなくても、片一方の方がいらんごとなっておったり、思いもかけないところから金銭のおくり合わせを頂いたりというような御取次の働きが、そういう風な形になって、現われて来るのである。ね。
今日は、お道の信心で言うように一番大事なところ。
 しかも、ここはもう、教学をするなら、限りなく教学が出けるところを皆さんに聞いて頂いておるわけなんですね。今日、私は午前中、奉仕の時に久留米の佐田さんのお母さんが参ってみえる。久留米の井上さん達親子が、ある問題でえらい深刻な御取次を願っておられるのを後ろから聞いておられた。親子の問題である。混々と御理解を頂いておられるのを横から聞いておられた。そして替わって、佐田さんが出て来られた。もう先生、今日は本当に御取次を頂かなければ、私の胸が治まらないことがある。
 今日は先生、朝から嫁がです、もう、とにかく、ニコニコとしてから、その、御用させてもらいよった。そして、一服した時に、お母さん、私はもう、本当にもう、今、私をお引取り頂いたっちゃ、もう本当に、私はもう、おかげが頂かれる、と。
 今、私は朝から感じておる、極楽のような有り難い心持ちというものはです、この心持ちならば、私は今お引取りを頂いても、私はおかげを頂けれるということを思うたら、もう、嬉しゅうして嬉しゅうして、涙ばかりこぼれると言うて、お母さんに話した。
 ところが、反対にお母さんは朝から何とはなしに落ち着かない。ね。いくら金光様、金光様の、とにかく唱え続けさせて頂いても、いや、嫁が助かっておる、その話を聞かせて頂いても、もう、嫁が羨ましゅうして堪えん。あんたばっかりは、ほんに、おかげを頂いておるの、と口では言うけれどもです、もう、心の中では、もう、本当に憎たらしいごと、その、羨ましかったこと。ね。
 これは、今日のお月次祭のお供えを持って行くのは私がおかげを頂いてから、このことを御取次を頂こうと思うて、実は、今日は御取次を頂かせて、あの、このことをどうぞ、先生、私という人間は、もう助かられんもんでしょうか。ね。そういう時に、やはり御取次を頂くんですもんね。ね。
 誰だって、皆がそんな、なら、貴女のところの恵美子さんだって、そんいつもかつも、そんなに有り難いと言うのじゃない。今日は、とりわけおかげを頂いておる、心の状態の中。というだけのこと。ね。貴女が昨日一昨日の総会の時、お宅の嫁さんの恵美子さんが、婦人会を代表して体験発表をなさった。
 本当にあの、素晴らしいお話であった。壇上に立つのは初めてだと言うのに、やはり、内容を持たなければお話は出けない。他の話なら、どんなに世間話が上手でありましてもです、御信心のお話だけはです、もう、本当に人の心に触れて行くというようなものは、自分の心の信心が、こう、素朴であっても、どんなにそれは表現がまずかってもです、相手に伝わって行くもんだ。
 みんなが大変、おかげを頂いた。ということはです、本当に今日、佐田さんのお話はええお話だったな、というようなことを私話しておりましたら、ある方がです、先生、佐田さんところはね、今日は嫁御が皆さんの前に立ってから、初めてお話をするというので、お母さんは朝から潔斎して、修行させて頂いて。どうでも、嫁がお話をさせて頂くとでございますから、どうぞ、嫁自身もおかげを頂き、聞いて頂く方にも何とはなしにおかげを頂いてもらえれるように、おかげをおくり合わせが頂けますようにと言うて、ちょうど嫁が話す時間まで、朝から、もう暇さえあれば、御神前に出て御祈念をさせて頂いたという話を聞かせて頂いて。私は恵美子さんの話よりも、その話で私は感激したて、私がこう言うたんです。これは御取次なんですね、やはり、御理解なんです。そしたら、涙がぼろぼろ出る。昨日一昨日のことである。
 先生、おかげを頂きました。どこから、この有り難いというものが生まれてくるのか。どこから、この有り難いという心が頂けれるのか。ね。お互い、御取次を頂かせてもろうて、形のおくり合わせを願うことも有り難いけれども、自分の心のおくり合わせを願わせて頂くということ。そこに、次に御理解が、ちょうど、なら、その前の前の日の、私の頂いたそのことについて、私も感激させて頂いたその話をさせて頂いたら、自分のことなのだけれど、それに感激。ね。
 本当にもう、それこそ、来る時と帰る時とは、二人見るようにして帰られた。ね。御取次の働きというのは、そういうようなものなんです。ね。御取次を頂かせてもらう。しかも、その御取次を絶対のものとして頂かせてもらう。ね。そういうけいこがなされて行かなければなりません。どうせお道の信心をさせて頂くならば、どうでも、御結界は絶対であるということ。これは、親先生であろうが若先生であろうが、どこの、どういう修行生の方が座っておろうが、いわゆる、金光大神の働きというものは、ここで厳然として在っておるんだということ。ね。
 例えば、よし、ここにワラ人形が座っておっても、金光大神、天地金乃神様とのお話し合い。お話し合いというよりも、お話の取り決めが出けておる。ね。金光大神に取次ぎ助けてやってくれいという、その、依頼というか願いというものが、ね、こういう時に、そういう風にして現われて来るのである。
 ですから、ここに今、誰が座っておっても、御取次を頂くということの働きにおいては変わらないけれども、はあ、今日は親先生じゃった、今日は若先生じゃった、と。この頃は、こうしてお月次祭の時には両方の御結界を使わせて頂く。朝の御祈念の時には、両方の御結界を使わせて頂く。
 この頃はですね、非常におかげを頂いて、もう、信心の分かっておられる方なら方ほどが、やはり、こちらの御結界を利用されます、利用されるていうか。こちらの御結界に御取次を願われるですね、たくさん待っておりますから。そすと、やっぱ初めての方達ほどですね、こちらへこう、もう待ってからでも、親先生にお願いしとった方がおかげを頂くように思うらしいんです。
 ね、問題は、それをやはり、その人のためには、そういう思いこみがあるから、おかげを頂くんですけれども、御取次の働きというものは同じことであるということ。問題は受け方一つなんです。受け心ひとつで、おかげが決まって来るのである。
今日は、御結界の不可侵ということを、皆さんに聞いてもらいました。
 御取次の絶対性ということを、まあ、色んな例を持って聞いてもらいました。このことがです、お道の信心の基礎になるもの。ね。そのことを私どもが、「そうだ」と確信出けるところから生まれてくるところのおかげであり、喜びであり、安心であり、または、めぐりのお取り払いという事になって来るのである。
 右とお願いしたのに左、左とお願いしても右。ね。そこを絶対の確信を持ってすると、これを神様のご都合に違いはないと確信される。いや、めぐりのお取り払いに違いはないと確信することが出ける。ね。神様の御取次の働きに間違いのあろうはずはないと確信するところから、どのような場合でも、生き生きとそこんところを頂き抜いて行くことが出けるのでございます。ね。ここんところを確信させて頂くために、お互いがお道の信心をさせて頂いておると言うても、過言じゃないのでございます。どうぞ。